6月の秘密
明け方に目が覚めてしまった、意識だけがぼんやりと宙に浮いている。寝返りを打とうとも、カーテンの隙間から日は差し込んでいない午前4時。瞼は重くたまらないくせに眠りは再び訪れそうに無く、躊躇しながら上半身を起こす。“暗闇”にいた。
それは確か“深夜”だ。そしてそれは、一般的な其れと比べたら大変殺伐としている六畳の自室で起こっているのか、自身の意識という次元で起こっているのかわからない。17歳の彼女が、ゆっくりと言葉を、まるで原稿が用意されていて、それを一言一句なぞるかの様に、それらを慎重に大切に話し出した。
「それは夢なのか現実なのかわからない。
私は確かに、“深夜”の“暗闇”の中にいて、そのときが来ると、“何か”によって息をすることが難しくなる。呼吸は速く、浅く。次第に体温が下がるのを感じる。枕もとの煙草を探りたいのに、腕は上がらない。」
ふっと小さく息を吐いた、彼女は私の指先に視線を落とした。睫毛が影を落とす。
「やがて空が白んで、ベッドの中でまるまって震えるままに“私”が戻ってくる。恐る恐る腕を伸ばして、無造作に煙草を銜えて。すると、行方など気にせず周りに溶けるはずの紫煙が、とぐろを巻いて空間を侵していく気がして。
それは後を引くの。きっと“私”の細胞の核の影から少しずつ、本当に少しずつ私を侵しているんだわ。」
それは物理的な何かではない、と彼女は言った。それには行き場がない、と言った。これを私が抱えるのは必然である、彼女は空を見ながら言った。
「それが“あなた”を満たすの?」
「そう。今、熔解をしているのだと思う。」
多分、そう彼女は付け足した。別に理解してもらおうとは思っていない、とも。
「きっとこの話を聞いた世の中の99パーセントの人間が、同情やら奇異に対する軽蔑やらを孕んだ目で私を見るのよ。」
多分、彼女はそう付け足した。まだ誰にも話したことはないけれど、とも。
「海を見ていた。特筆すべきような美点のある光景ではなかったと思う。」
彼女の話は続いた。
“それ”の存在に気付いてから、彼女が人と接する頻度は少なくなった。言葉も至極交わさず、外に出る機会すら減っていった。“彼女”はどこにいても一人だったけれど、“それ”の存在が大きくなればなるほど、“彼女”は更に独りになった。
「私ね、海に行くの。」
「海?」
「ええ、海。」
「一人で?」
「ええ、一人で。」
そう、彼女はきょとんとした顔で。一人で、と言った。
その一瞬は永遠で、その暗闇は本物だった。
先ほどまでの瞳は消えた。彼女の話は、幾分物理的に、軸はさしてぶれない中を行ったりきたりしていたように思う。それはつまり一般的に会話の時に交わされる話の内容であったのだろうと思う。それは相槌を不要とするものだった。彼女はまるで一人で話しているようだ。それは今朝の朝食であり、天気であり、趣味の話であった。それが数分続いたように思う。ここはどこなのだろうか、“彼女”は誰なのだろうか。
ゆっくりとポケットに忍ばせた煙草を手に取った。
「吸ってもいい?」
肯定も否定もせぬまま、急に彼女が、波に呑まれたときの話をしてあげる、と笑った。サーフィンって意外と危険なのよ、と。あなたが居ることに今気付いた、という具合に。あなたはまるで最高の話し相手だ、というような笑顔を浮かべながら。
私は口に銜えた煙草に火をつけた。そして彼女の次の言葉を待った。
「とにかく全身の力を抜くの。波に吐き出されるの、待つのよ。
絶対に、無理をしてはいけない、と誰かに言われたのを思い出すわ、いつも。頭の片隅で。
でもね・・・。」
再び彼女の睫毛が影を落とするのを見る。
「“それ” が邪魔するのよ。なにからなにまでを。」
どうやら視線は私の指先を見ているのではないらしい。何も、見ていないようだ。そして、先ほどまでの無邪気な一面は影を潜めたようで、また彼女の淡々とした語り口調が再開されたようだった。つい数分までの彼女と、まるで違う。
「私、海にいる間も“暗闇”にいることができるの。」
これも誰にも話したことないのだけれど、“私”と“それ”が熔解している話はしたわよね?覚えている?
“暗闇”の話をしようと思う、と彼女は言った。
「波に呑まれたときね、全力で力を抜かなくてはならないの。砂浜から、波に飲まれている光景を見る分にはまるで一瞬なのよ、波の中に居る時間的なものはね。実際、実質はほんの何秒かくらいなんだけれど。それにしても、波のパワーってすごいの。どちらが上か下かわからないぐらいになって、体が八方に引き千切られるような気分になるの。
そして、その一瞬は永遠のように感じるわ。
一度、ひどく体が言うことを聞かなくて、私は全力で力を抜かなかったことがあるの。」
そこで彼女は一息を吐いた。
しばらく間を空けた後、“私”はどうやら救われたらしい、と彼女が言った。どうやら水に漬かっていない、が、髪が水に濡れておでこに纏わり付いているのが睫毛の隙間から見えた、と。日の光の下に居たし、鼻を付くのは潮の臭いとココナツのような、砂浜の独特の匂いだった、と。
私ね、右手を動かそうとしたの、でも、指の第一関節すらもが微動だにしなかった。いま、この泥のように徐々に砂に埋もれいきそうな錆色の身体の主導権を握るのはどうやら“私”という意識ではないらしいようだと気付いたの。
其の時、私は極度の酸欠状態に陥っている、共に至極の快楽を味わっている。
一度本当に死んでしまえばいいのよ、獣のそれのように、“何か”が叫ぶ様に言った。
あなたは私があなたのことをどれほど大切に思っているか知る術も持たない、と。
私はとても悲しい、悔しい、なんと愚かな事か。私はすぐにわかった、“私”が全力で力を抜けなかった理由が、“それ”の仕業だと。
「酸欠状態になるとね、ブラックアウトと呼ばれる状態に陥るの。」
「ブラックアウト?」
つまり意識を失うこと、ね。
私は暗闇で“それ”の姿を見た。
“深夜”のそれと同じかどうかはわからない。
「私、やっぱり一人だった。」
「え?」
「そのとき。」
波に呑まれる瞬間も、呑まれている間も、日の元で回復している間も。
「正直怖かったの。」
「何が?」
「自分の体がいうことを聞かない位に消耗して、まさに瀕死状態、そんなときにね、
私は気持ちが良かった。
そう思ってしまったことが、怖かった。」
彼女の視線が止まった。どうやら私の表情を見ているらしい。私?私。
「それからこっそり、私は海に足繁く通った。時たま大きい波が来たときは、意気揚々と向かった。そしてよく“それ”を感じた。わざと自分を追い詰めるの。生と死の際どいところで。」
病気かも知れない、彼女は笑った。
そんなことない、と言えなかった。
「ねえ、絶望の淵って見たことある?」
彼女が、窓の外を見た。どうやら私たちは今、室内にいるらしい。窓の外を見れば、夜だということに気付くことができた。それも相当に。この部屋には時計がない。
「行きましょう、」
どこへ、とも聞かず私は彼女の後を着いていく。少し歩けば、そこに“海”があった。暗闇のことなのでよくわからないが、確かに海だった。特筆すべき様な素晴らしい光景ではないと思う。
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# by he_loves_me | 2011-09-30 02:11 | 小説 | Trackback

